読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

みなかみ’s blog

忘備録と整理のために

硫黄島からの手紙(2006)

父親たちの星条旗 | 硫黄島からの手紙

硫黄島からの手紙 - Wikipedia

movies.yahoo.co.jp

 

 いつだったか、「人間は物事に対して意味を求める」といった言葉を聞いたことがありました。これはまあもっともな話で、人間は自分のやったことに「価値」や「意味」を求めることで、自分の行動を正当化します。こうすることで自分の存在理由と接続し、自分のアイデンティティの確立を図ろうとしているのかもしれません。
 こうしたラベリングは「死」に対してもしばしば行われる営為です。もし親しい人が死んだとき、身近な人々は、その人の死にラベルを施そうとします。そのひとの「人生における行為」を評価したりして、その人の価値を高めることで、その人の「死の価値」
を高めようとしているのだと思います。
 ただし、「死」は本質的には意味を持ちません。そこにあるのはその人が「死んだ」という事実なのです。しかし、「死」を人がまともに受け止めると、心の中での処理ができず、激しい精神的な負担になり得ます。だからこそ、そういう意味でも人は「死」に意味を見出そうとするのでしょう。しかし、この映画は徹頭徹尾、「無意味な死」を観客に突き付けます。

 「硫黄島からの手紙」は2006年、クリント・イーストウッドによって製作された、戦争映画です。戦いの舞台は太平洋戦争における激戦地となった硫黄島。栗林忠道中将率いる日本軍が死守する硫黄島を、米軍が占領しようと試み、大きな損害を出したことで知られています。このころ日本軍はミッドウェー海戦に敗北した後で、南方戦線で米軍の攻勢に耐えられず、守勢に立たされていました。そうしたなか、サイパン島が陥落し、絶対国防圏が突破され、日本列島がB-29の射程圏内に収まる中、東京への爆撃ルートにあった硫黄島の戦略的価値は、日本軍にとっても米軍にとっても高かったのです(B-29爆撃に対する日本軍の早期警戒拠点だった)。その結果、硫黄島に米軍は大軍を引っ提げて占領しようと試みます。

 ここまで書いてて、硫黄島の戦いは絶望的なものだったのではないかと思う方も多いと思います。もちろん絶望的です。物資・兵器が不足した日本軍2万と、物資が豊富で火力支援も期待できる米軍約11万という圧倒的戦力差がここにはありました。
ランチェスターで防御側を有利に倒すのに必要な戦力は3倍と言われていますが、このときの量的差は1:5、しかも日本軍は質的不利も背負い、戦いに身を投げうつことを強いられることになります。全体の戦況も絶望的な中で、展開されるこの戦いに意味はあったのでしょうか。緒論あるとは思うのですが、本土防衛が絶望的になりつつある中で、敗北がほぼ決定的な戦いを行うことは、無意味でしょう。
 そう、この戦いに身を投じる兵士の死は無意味にも取れてしまうのです。そのうえ、戦いのなかで敵と直接交戦することもなく死ぬ兵士、上官の無茶な命令で倒れる兵士、戦略として無意味な死、様々な無意味な死、こうした、「無意味な死」を徹底的にこの映画は突き付けて来ます。

 今でも自分は出不精で、映画館に足を運んだりあまりしないのですが、中学生だった当時の自分は映画のポスターの美しさや、直感的に「この映画は面白いぞ」と感じたために、親に懇願して1時間20分かけて親に映画館に連れて行ってもらい、鑑賞したという思い入れのある映画でもあります。そして、あまり映画で泣いたりしないのですが、この映画では「無意味な死」というのを突き付けられた結果でしょうか、ボロボロ泣いてしまい、途中で一時的に見ることができなくなりました。
 特に、主人公の同僚が主人公の説得の結果降伏を決意し、アメリカ兵に降伏したものの、「捕虜管理がめんどくさい」という個人的感情で射殺されるシーンがありました。当時の自分は、「あんなに悩んだ結果降伏したのに、なんでこんなにぞんざいに命が扱われてしまうんだ」という感情が渦巻き、耐えられなくなりました。このように、「無意味な死」、「意味づけできない死」が蔓延する戦場を、この映画は泥臭く描き出しています。

 

 他にも、栗林中将の兵士に対する感情や苦悩、戦闘シーンの壮大さといった見るべきところはたくさんあるのですが、ここではそれは取り扱わないことにします。
「無意味な死」から感じられる無常さややるせなさで、気分を落ち込ませたい方はぜひこの映画を見てほしいなと。

歴史研究の妥当性はどう保証されるかを考えてみた。

・歴史とは?

 歴史研究者によって取捨選択された歴史的事実を用いて、ある目的意識に沿って叙述されたもの。

 

・過去の出来事が歴史的事実となる条件って何よ?

 多くの歴史家によって、ある過去の出来事が歴史的事実としてコンセンサスが得られたかどうか。すなわち、コンセンサスが得られていない出来事については、歴史的事実として扱うかどうかは保留される。

 

・研究者の目的意識に沿って記述された歴史は、事実ではない「物語」や「小説」にすぎないのではないか?(研究の妥当性について)

 まず、この質問の背景には、「正しい歴史」が存在するのではないか、という懐疑が存在する。しかし、「正しい歴史」とは何だろうか。例えば、過去の出来事をすべて時系列順に記述することで、研究者の恣意性を排した歴史記述、が検討される。19世紀にイギリスのケンブリッジ大学が「ケンブリッジ近代史」という書籍を出版した。イギリスの歴史家アクトンによって編纂された本書は「19世紀が後代に伝えようとする知識を余すところなく記述」することで、過去の歴史を整理・編纂しようと試みた[1]。しかし、過去の出来事をすべて綿密に記述することは、紙面の問題やコストの関係から困難である。もし、より絞った、重大そうな出来事を時系列順に記述するとしても、重大そうな出来事を絞る過程で研究者の問題意識や重大性の考量といった恣意性が介在してしまう。よって、研究者の目的意識を排した歴史を記述することは現実的ではないし、ほぼ不可能に近い。そのうえ、「正しい歴史」という考え方にも、主張者の「歴史像」が内包されている可能性がある。つまり、「正しい歴史」というものを編纂することは実質上不可能に近い。E.H.カーが、歴史研究には現代の諸問題に対する研究者の問題意識が包摂され、一回答としての歴史が形作られる[2]としたように、歴史は完全な歴史編纂の不可能性から、研究者の思想性が必ず包摂されてしまうのである。

 しかし、「正しい歴史」の叙述が困難であったとしても、歴史は私小説の域を脱することはできないのではという疑問が残存してしまう。なぜなら、研究者の手によって意図的に編纂されるため、歴史叙述は単なる恣意的に描かれた物語としかみなせないのではないか、という疑問が浮かぶからである。しかし、ここで科学的手法、つまり反証可能性を示すことで、「科学としての歴史」を形成し、「物語」「小説」からの脱出を図るのである。反証可能性を示す手法として、例えば、歴史を叙述する際に用いた資料を脚注に記述しておくことで、別の研究者が同様の手法と資料を用いてもある程度、同一の結論に至ることができる、もしくは妥当性を裁定できるようにしておく。すなわち、研究者間の検証によって、歴史研究の「物語性」・「小説っぽさ」は排除可能になっているのである。

 こうして検証可能になった歴史叙述に対しても、そもそも問題意識が極端なもので、かつ恣意的に文献が選定され、偏った引用文献ばかり用いられていたら検証しても意味ないのではないか、という疑問が出るだろう。しかし、現在では、特定分野には多くの研究者が研究に参与しており、偏った文献によって歴史が叙述されたとしても、研究者からの批判が寄せられることとなる。そして、先に述べたように、歴史的事実に基づく叙述が正当性を得るには、他の研究者とのコンセンサスが得られるかどうかが課題となるのである。こういったプロセスは、論文投稿においては「査読」、修士・博士論文においては「審査」という形で実現されているのである。つまり、歴史研究は研究者間の相互監視によって、逸脱した歴史記述が認められないように、システムが構築されているのである。

 疑い深い方は、研究初期の歴史叙述が間違っていた(妥当性が低い)場合、全体の研究方向性がそもそも誤った方向に向かうため、研究・研究者全体の信頼性が低いままになると疑問を持つかもしれない。しかし、研究者は先行研究を洗い、妥当性を判断したうえで先行研究を用いて研究を進める。よって、妥当性が低い場合、先行研究への批判と研究方向性の軌道修正がなされるのである。さらに、のちの研究者が新たな資料を発見するに伴って、先行研究とのすり合わせを行う段階で新資料と組み合わせて再度検証がなされる。このように、先行研究への批判プロセスのループが形成されるため、初期の歴史研究に誤謬があったとしても、修正がなされるのである。ただし、ここで補足したのは、誤った研究が必ずしも積極的に恣意的な研究資料の選定に基づくとは限らないということである。

 歴史研究は史料的限界という問題を常に抱えている。歴史研究を行う上で用いられる資料には、各国政府が発出した公文書・公刊物、政府高官の声明、新聞・雑誌記事、インタビュー、といった一次資料、すでに出版されている学術書といった二次資料がある。こうした資料は時間経過とともに公開・出版され、蓄積されるという特性を持つ。例えば、アメリカ合衆国政府が作成した公文書はFOIA(情報公開法)に基づいて、一部の文書を除き、一定期間経過後の原則公開が義務付けられている。公開された文書、紙媒体はアメリカ合衆国ワシントンDCにある国立公文書館(NARA)、メリーランド州にある国立公文書館2(NARAⅡ)、電子媒体ならオンライン上で保管、公開される[3][4]。しかし、研究初期の段階では、必ずしもこうした資料が十分に蓄積されておらず、史料的限界が生じる。史料的限界の中で研究者は研究を行わざるを得ない。よって、時間経過とともに誤謬が生じてしまうのである。しかし、分野にもよるが、先に述べたプロセスによって歴史研究はコンスタントに修正されるため、自浄作用が働く。よって、歴史叙述の妥当性は保証されることとなる。 

 したがって、歴史研究の妥当性を保証するのは、出典を明記することによる反証可能性、「審査」「査読」によるチェックシステム、先行研究批判による自浄作用なのである。

 (11/17,0:57:増補・改定)

[1] E.H.カー、清水幾太郎訳(1962)『歴史とは何か』岩波新書、p.1

[2] カー、p.3

[3] https://www.archives.gov/ (NARAリンク)

[4] http://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/pdf/226-1.pdf (FOIAに関する詳細、邦語)

 

 

文章をうまくなるためには?-斉藤孝が勧める書く力の身につけ方

 文章をたくさん書きたい。でもなぜ書けないのかわからない。そんなつらい気持ちが自分を覆っていたので、手元にあった斉藤孝(2007)『原稿用紙10枚を書く力』だいわ文庫、を読んでみた。するといろいろ知見があったので、文章練習の実践の意味も込めて記事を書いてみた。

 斉藤によれば、文章をうまくなるためには、好きなテーマでとにかくたくさん量を書く必要がある。そのために、書きたいテーマを大まかに考えながら、本から材料を引き出す。そしてこれを3つにグルーピングし、全体像を把握しやすいレジュメに落とし込む。そして、3つの要素の間に論理をつくり、文章を書きあげる準備を整えてしまう。こうして準備ができたらガンガン書いていくとよいらしい。これだけではいまいちイメージがつかみにくいと思うので、これから順に説明していく。

 

①文章はどうすればうまくなるのか。 

 それでは、文章を書けるようになるためにはどうすればいいのか。それは、量を書くことらしい。このとき、文章を書けないのに量を書けるわけないだろう、と疑問を持つだろうけど、至極まともな反論です。しかし、いくらバッティングのやり方の本を読んでも、バッティング練習をしなければうまくならないように、書くことも書かないとうまくならないと考えると、受け入れられる主張になるのではないでしょうか。つまり、うまくなるための方法論の本を読むよりも、書く中でうまくなるほうが、効率がいいのかもしれない。

 じゃあ具体的に、どのくらいの文章を、どうやって文章を書く練習をすればいいのかという疑問がわく。斉藤によれば、だいだい原稿用紙10枚分、つまり約4000字を、好きなテーマで書き、とにかく文章を生産することが、上達につながるとのこと。4000字といえば、レポートの平均的な分量。何か特定のテーマについて文章を書く上で、かなり妥当な文字数である。斉藤によれば、4000字程度の文章を自由に書けるようになれば、それ以上の分量を書くことが要求されても、この分量の文章を組み合わせることでかなり楽に書けるようになるとのこと。つまり、モジュールを作っておいて、それを組み合わせるという考え方。テーマはとにかく、書けそうな好きなテーマで書くことが重要らしい。なぜなら、この練習は、文章を書く上での心的ハードルを下げることが肝要だから。すなわち、たくさん書いて心的ハードルを下げることで、よりたくさんの文章を書く余裕が生まれる。だから、せめてテーマは好きなもので書いたほうが書くことにとっつきやすくなるのではないか、ということ。

 すなわち、気楽な気持ちでたくさん書いて文章を書いて、たくさん文章を書くことに慣れていきましょうね、ということ。しかし、これだけの考え方では文章をうまく書けるようにはならないらしい。なぜなら、このままだと散逸した情報をめちゃめちゃに組み合わせてただただ長ったらしい文章を書くだけになる可能性もあるからだ。これを見越してか、斉藤は具体的な手順にも言及している。

 

②どうやって文章を書くか。

 斉藤は事前準備の重要性を強調している。長い文章をかくためには、それ相応の準備が必要とのこと。それでは、どのような準備か。それは、重要だと思う部分・面白いと思う部分に線を引き、そこから三つのキーセンテンスを取り出すこと。斉藤は文章を書くためには材料となる本を読まないといけないと前提を立て、書きたいテーマを漠然と意識した、材料集めのための「こなす読書」を推奨している。つまり、何を書きたいかなんとなく考えながら本を読むと、そのテーマに引っかかる部分が出てくる。そこを見つけつつ本を読み、書くための材料をためる読書をし、そこから3つのキーセンテンスにしぼっていこうということだ。

斉藤は三色ボールペンを用いた材料探しを斉藤は推奨している。たとえば、赤色は個人的に面白いと思ったところ、青色はとても重要だと感じた部分、緑色はそれなりに重要だと思った部分という風に各色の役割を決め、線を引きながら読み進めていくとよいらしい。なるほど、こうすれば後から取り出したい部分が一目でわかるし、線を引いた部分の意味合いも一目瞭然になる。かなり効果が高そうである。ただし、公共図書館から借りた本などは、事前に面白い部分が含まれたページに付箋を貼っておき、印刷してから線を引くなどの別のやり方を取らないといけないだろう。こうして取り出した部分から、特に面白い部分を三つにグルーピングする。なぜ三つにグルーピングするのか。

 斉藤によれば、4000字の文章を効果的に書く上で含めることができる要素は3つくらいがちょうどいいらしい。それ以上になると内容過剰になり文章が複雑化し、それ以下だと足りなくなるらしい。自分が面白い部分を3つキーコンセプト化し、文章を書くことで適度に複雑な、独創性のあるまとまった文章になるとのこと。確かに、書きたいことをあれこれ放り込んで無駄に複雑化し読みづらい文章や、内容が薄く全く面白くない文章があることを考えれば、適切な指摘なのかもしれない。ただし、必ずしも3つの文節を書き出さなければならないというわけではなく、複数の引用部分を3つにグルーピング化するというやり方もありとのこと。つまり、言いたいことを3つにまとめておくということが重要みたいである。ここから、3つキーセンテンスを引き出すために、三色ペンを用いた「こなす読書」の必要性を斉藤は取り上げた。それでは、こうして引き出した三つのキーセンテンスをどのように構成していけばいいのだろうか。

 

③骨組みを作る

 斉藤は構成するための練習として、レジュメを作ることを推奨する。レジュメはゼミ発表などで、読み手・聞き手に発表内容を概観させるために作成する。つまり、読み手が発表の全体像を把握するためのレジュメを、文章作りに応用するのである。いわゆるアウトライン作成である。書きたい内容のアウトライン化は、書き手が書く文章の全体像を把握するのに役立ってくれる。たとえば、文章を書いていてなんとなく構想ができたので書き出してみた経験はないだろうか。しかし、こういう時に書いた文章は途中でまとまりがなくなり、読んでいても方向性がつかめない迷路のような文章になることがほとんどである。ちなみに筆者はしばしばこの状態になり、書くことをあきらめて不貞寝することが多い。こうした、書くことがつらくなる状況を避けるためにも、水先案内人としての、レジュメによるアウトライン化は必要なのだろう。

 このとき、3要素間の論理構造を考えておくことも必須である。ただレジュメを作ると、単に各要素を列挙した材料としてのレジュメにとどまってしまう危険性がある。これを避けるために斉藤は3要素を図示し、各要素間の論理構造を考えることを勧める。つまり、3要素の論理構造を視覚的に把握できるようにしておくことで、書きたい論理構造が見えてくるのである。そして、この論理のつなげ方が、文章のオリジナリティにつながるらしい。

 例えばうどんのおいしさを伝えたい文章を書くとする。要素を、①麺のコシが強いほうがいい、②汁はだしで作ったほうがいい。③上に乗せるのはとり天が最高、という3要素に絞る。このとき、①・②・③の相互関係を考える。①と②は、汁が濃すぎると味ばかりに気が散ってしまい、麺のコシの重要性に気を配れなくなるので、だし汁のほうがいいという論理、②と③はとり天に濃い汁が絡むととり天がしょっぱくなってしまうのでだし汁くらいの濃さがちょうどいいという論理、①と③は、とり天は食感が柔らかいので、コシの食感を引き立ててくれる。そして、これを引き立てるためにも麺のコシは強いほうがいいという論理、というそれぞれのつながりを挙げることができるだろう。ここから、麺のコシととり天の食感を引き立てるうえで濃い汁はそれらの良さをダメにしてしまう。だからだし汁を使うほうがいい。そして、とり天は柔らかいので麺のコシを引き立ててくれる。この食感の差を最大化するためにも麺のコシは強いほうがいい。つまり、この三つを組み合わせたうどんは美味である、という論理構造を導き出すことができるだろう。なおこの例えは筆者の好みである。この3つの要素の論理は人によって変わってくるだろう。この論理構造こそが、文章のオリジナリティにつながるとのことである。

このように、まず引き出した材料を3つのキーセンテンスに分けた上でレジュメ化し、全体像を把握できるようにする。そして3つのキーセンテンスの論理構造を設定し、書きたい文章を構造化することが、長い文章を書く上で重要になるのである。

 

以上のように、長い文章を書くための心的ハードルを下げる方法と、具体的な書くための」技法を書いてきた。これを読んで、読んでいる本から三つだけ要素を抜き出すなんて無理、なんて人もいるだろう。もっともである。しかしよく考えてほしい。なんとなく読み始めた本で内容が頭に残っているのはどれだけだろうか。おそらくかなり少ないだろう。しかも、これを使って文章を書けと言われれば、もう死にたくなるはずである。このようにテクニカルな読み方・書き方を用いることで、少なくともアウトプットが可能になるし、3つの要素は頭に残るはず、と考えるとかなり効果的なメソッドではないだろうか。斉藤はこうしたトレーニングを積むことで、情報を整理する癖がつき、文章がうまくなるのみならず、頭の中で考える訓練にもなると、このメソッドの効用を強調している。ここまで読んでもなお、苦しんで経験を積んで、上手な文章を書く練習をしろという人もいるかもしれないが、自分は楽できることなら楽したい人間なのだ。だから、比較的楽に練習になりそうなこの練習法に乗っかってみようと思う。アニメや映画を使って、アウトプットをするのが手軽らしいので、とりあえずそこから始めよう。

ちなみに筆者はとり天うどんが一番好きなうどんである。次点は阪急そばのフライドポテトうどんである。(4085字)

佐々木卓也(2011)『冷戦ーアメリカの民主主義的生活様式を守る戦い』

Memo

Amazon CAPTCHA

 

//佐々木卓也(2011)『冷戦ーアメリカの民主主義的生活様式を守る戦い』有斐閣


/本書の概要
佐々木は冷戦史の起源・展開・終結を検討するために、主にアメリカが展開した外交政策の史的過程を基本に論を展開している。佐々木は冷戦期アメリカの外交政策が形成される要因として、①アメリカの伝統的な外交、②アメリカ国内社会・政治の反映、③冷戦の展開への応答を挙げ、すなわち、冷戦期アメリカの外交政策は、国内における社会の反応や政治闘争、時々の国際政治における各国の外交政策の影響を強く受けると同時に、アメリカ合衆国建国時から継承される根本的なアメリカ的な理念が相互に影響しあい形成されたとする。つまり、こうした要素から形成された外交政策が冷戦期にどのように展開されたかを追うことで、佐々木は冷戦とは何だったのかという疑問に応答しようとしているのである。
それでは、佐々木は冷戦をどのように定義しているのだろうか。佐々木は冷戦がヨーロッパの勢力均衡に代表される従来の戦争と比較して特異であることを強調し、冷戦の定義を試みている。アメリカの見地に立つと、冷戦は「アメリカ的な生活様式」を守る戦いであり、米ソの普遍的なイデオロギーをめぐる戦いであったと佐々木は定義づける。旧来の戦争は当事国の政治権力の正統性を問うものではなく、領土・金銭・権益のやり取りを通じて戦後処理を行い、同盟関係を国際政治情勢に応じて臨機応変に転換するものであったことを考えると、イデオロギーの正統性、すなわち国家体制を規定する思想の正統性に固執した冷戦は特異であった。また、対立の主要な当事国であった米ソが直接的な交戦状態に突入しなかったこと、そのうえ、世界的に展開された戦争であったことも特異であった。つまり、冷戦は全世界を舞台とする、直接的な戦闘を伴わない、権力政治とイデオロギーが交錯する米ソの二重の闘争であったと冷戦を概観したのである。
こうした冷戦観と分析手法に基づいて佐々木は、1991年のソ連崩壊までの期間を対象として冷戦を描くのである。

EclipseでRuby開発環境を構築する

Rubyを勉強したいので開発環境を整えた。

最初は多言語対応のVisual Studio Codeを使おうとおもったけど、PC言語がロシア語なのでロシア語になってしまい使いづらくEclipseを選択。

 

Eclipseでの開発環境を整えるにあたって参考にしたサイトは以下。

Eclipse 日本語化 | MergeDoc Project (日本語化ファイルのDLサイト)

d.hatena.ne.jp

qiita.com

 

参照サイトの更新から時間が経っているせいか、開発環境構築時にいろいろ変更点があったので、明日詳しく内容を記述します。

メモ:離散確率変数Xの理解

離散確率変数
 ・不確実な確率の計算をするための装置(サイコロみたいに確実な確率とは異なる)
  確率変数Xには既に確率関数px(x)が含まれており、こいつは実現値xを吐き出す。
  確率変数Xはブラックボックスなので実現値xの実現度合いから確率関数を見、確率変数の性質をチェックする。
  
  実現値に対応して対応確率を吐き出すのが確率関数
  離散確率変数Xは抽象的概念。実現値xと対応する確率関数によって観測できる存在。
  
  離散確率変数Xをチェックするために、確率関数と実現値を用いる。
  だから実現値・確率関数→離散確率変数Xという構造。
  
  実現値は実数値。
  
  確率関数の定義は以下
  Σpx(xi)=1(確率和)
  0<px(xi)<1 (i=1,2,...,n)
  
  実現値xと対応する確率関数によって構成される総体としての離散確率変数Xの分布を示すのが確率分布。
  確率分布を吐き出す装置が、分布関数(累積分布関数)。
  累積なので足し算する。最大1(確率の分布だし)。最大のxiはxjと置く。
  
  公式は.
  Fx(x)(:累積分布関数は)=px(x1)+...+px(xj)=P(X≦x)
  性質は
    0≦Fx(x)≦1
    Fx(-∞)=0
    Fx(∞)=1
    x<x*なら、Fx(x)≦Fx(x*)

メモ:ブレーキを解体するということ

 

www.pixiv.net

最近思うことと被ってたのでつらつらと。

できないっていうのは、どこかで自分に対してブレーキをかけていることなんじゃないかと思う。


ブレーキは生きている中で、他者(本や教科書含む)と接する中で生まれたマイナスの感情が蓄積して、「できないかも」という感覚がそれじゃないか。

 

案外触れてみるとどうにでもなったりするけど、その分野で蓄積がない状態だと目算を誤ってしまい、途方もない感覚に襲われ、触れることさえ恐怖が先行してしまう。

こうして「できなくなる・しなくなる」=「ブレーキをかける」。

 

ブレーキを減らしたい場合、こういうブレーキって自分で解体しないとどうにもならないので、ブレーキの根源を見定めて、解体するアプローチをとってみる。

 

ただ、解体アプローチは結構長期的な作業になるので、全部解決してやると思って、
意気込んで挑むと途中で疲れてしまい、中断を余儀なくされる。

 

そうすると、解体アプローチさえも、ブレーキの対象となり、ブレーキ解体さえも
困難になる。

 

まずは一分野に絞って、局地戦を挑むと気持ち的にも楽だし、効果が出ると思う。


自分の場合、数学は上澄みをさらうことから初めて、いま統計の本を理解できるようになっている

数学は小学生のころから大の苦手だったけど、算数→中学数学→経済数学(全部初学者向け)というプロセスを経て、自発的に統計という面から局地戦をかけたらなんとかなりつつある。

すごいことをする前には、すごくないことを蓄積しないといけないんだなあと感じた。
これを高校のときに気付けたらなあと思うことはあるけど、今気づけただけでも価値はあったと思う。