みなかみ’s blog

忘備録と整理のために

田舎で生まれたことと情報格差について考える

 最近はTwitterFacebookといったSNSAmazonといったEコマース、インターネット技術の発達でどれだけ地方にいても、最新の情報を獲得できるようになりました。僕個人としてはこれは喜ばしいことだと思っています。何故なら、ある程度は田舎と都市の間で発生する情報の量が、ある程度少なくなったと感じるからです。

 以下の文章は自分の肌感覚に基いて記述しているので問題点がたくさん出てくると思うんですが、それについてはご意見をいただければと思います。

 

 自分は今四国のある県の県庁所在地に住んでいます。ここに引っ越してきたのは5年前、大学入学するときのことです。それまで僕は関西の片田舎にすんでいました。よくあるような田舎です。書店が小さく、ゲームセンターといった娯楽施設は極めて小規模で、ちゃんとしたゲーセンに行くには電車で1時間30分くらいかけて都市部に出ないといけない。公共図書館の規模も小規模。それでも、そこが自分にとっては故郷であり、世界の中心でもあり、当たり前の世界でした。

 

 しかし、大学受験で四国の大学に合格し、そこに移ると、様々なインパクトが僕を襲うわけです。まず驚いたのが、書籍をを徒歩圏内で購入できる場所が複数あるということ。しかも書店ごとに配置されている書籍の方向性も異なり、「特化している書店」がそこにはあったのです。例えばジュンク堂書店。そこには全く知らないような分野に関する専門書籍が立ち並び、情報の宝庫と化していました。複数の出版社の新書がずらっと並び、各国の事情にかんする専門書籍があり…宝の山がそこにはあるように僕は感じたのです。

 

 次に、ゲームセンターに行きました。僕の地元のゲームセンターといえば、複合商業施設に併設されている、小さな小さなゲームセンター。音ゲといえば太鼓の達人・型落ちのBEMANI各種くらいで、あとはプリクラ・メダルゲーム・クレーンゲームメインの、いまいち活気のないゲーセンでした。四国に来ると、ゲームだけを集めた大規模なアミューズメント施設があり、Jubeat(四国に来てから存在を知った)やリフレク、その他多数のゲームがあり、と、これもまた、大きなショックだったのです。

 こういった感じで、都会にあるモノ・情報の量に衝撃を受けたのですが、それ以上につらさを感じたのが、生まれ育った場所によって、初期の時点で触れることができるモノや情報の量にこれほどまで格差があるのか、ということでした。

 

 生まれ育つ中で受け取ることができるカルチャーの種類や量にここまで大きな差異ができてくると、都市部の子供のほうが、将来を考える際に想定できる道筋の数で優越します。何か学びたい・やりたいと思い立った時に獲得できる情報の量と質、手段が田舎の子に比べると幅広いのです。

 

 「それじゃあ、手近な都市部に出て、積極的に情報を手にいれればいいだろ!」と思われるでしょうが、その通りなんです。一時的にでも都市部に出ればいい話なんです。でも、常に情報に触れることができるのと、一時的に情報に触れるのでは、コストの面でも田舎の子は劣勢に立たされてしまうのです。

 

 僕が子供の時はインターネットは萌芽期で、ダイヤルアップ接続でしたし(後にISDNADSL、そして光になる過程を見ることができたのは高校頃)、サイトの数も徐々に増加しているような時期だったのでインターネットの恩恵を漸次的に受け取る形でした。僕はPCに触るのがめちゃくちゃ好きだったのは、知らない情報が多からずともそこにあることに対する高揚感がそこにあったからだったんだと思います。田舎の子が獲得できる情報量はやっぱり限られます。

 

 だからこそ、インターネット全盛になった今がものすごく嬉しいし、今小学生や中学生の子がとてもうらやましいなって。生まれた時点で多くの情報に触れる手段がそこにあり、受け取れる情報量やアクセス手段も多様になっているから。すぐに調べ物もできるし、Amazonで学びたいことに関する書籍を購入することもできる。

 

 インターネットによって多少でも田舎の子と都市部の子の情報格差が埋まりつつある今の時代は僕はとてもよい時代だと思います。子供のインターネットのやりすぎは良くないという人もいるだろうけれど、幼少期に様々な情報に触れることは自分のやりたいことを増やす良い機会であると思いますし、恩恵を受け取ることができる今の時代の情報技術を利用することは、都市部と田舎に厳然と存在していた情報格差を補填しようとする行為であると考えてみるのも良いのではないでしょうか。

 

もはやされつくされた議論ではあると思うんだけど、少し自分の中でもまとまった意見ができはじめたのでブログに書いた次第です。