みなかみ’s blog

忘備録と整理のために

歴史研究の妥当性はどう保証されるかを考えてみた。

・歴史とは?

 歴史研究者によって取捨選択された歴史的事実を用いて、ある目的意識に沿って叙述されたもの。

 

・過去の出来事が歴史的事実となる条件って何よ?

 多くの歴史家によって、ある過去の出来事が歴史的事実としてコンセンサスが得られたかどうか。すなわち、コンセンサスが得られていない出来事については、歴史的事実として扱うかどうかは保留される。

 

・研究者の目的意識に沿って記述された歴史は、事実ではない「物語」や「小説」にすぎないのではないか?(研究の妥当性について)

 まず、この質問の背景には、「正しい歴史」が存在するのではないか、という懐疑が存在する。しかし、「正しい歴史」とは何だろうか。例えば、過去の出来事をすべて時系列順に記述することで、研究者の恣意性を排した歴史記述、が検討される。19世紀にイギリスのケンブリッジ大学が「ケンブリッジ近代史」という書籍を出版した。イギリスの歴史家アクトンによって編纂された本書は「19世紀が後代に伝えようとする知識を余すところなく記述」することで、過去の歴史を整理・編纂しようと試みた[1]。しかし、過去の出来事をすべて綿密に記述することは、紙面の問題やコストの関係から困難である。もし、より絞った、重大そうな出来事を時系列順に記述するとしても、重大そうな出来事を絞る過程で研究者の問題意識や重大性の考量といった恣意性が介在してしまう。よって、研究者の目的意識を排した歴史を記述することは現実的ではないし、ほぼ不可能に近い。そのうえ、「正しい歴史」という考え方にも、主張者の「歴史像」が内包されている可能性がある。つまり、「正しい歴史」というものを編纂することは実質上不可能に近い。E.H.カーが、歴史研究には現代の諸問題に対する研究者の問題意識が包摂され、一回答としての歴史が形作られる[2]としたように、歴史は完全な歴史編纂の不可能性から、研究者の思想性が必ず包摂されてしまうのである。

 しかし、「正しい歴史」の叙述が困難であったとしても、歴史は私小説の域を脱することはできないのではという疑問が残存してしまう。なぜなら、研究者の手によって意図的に編纂されるため、歴史叙述は単なる恣意的に描かれた物語としかみなせないのではないか、という疑問が浮かぶからである。しかし、ここで科学的手法、つまり反証可能性を示すことで、「科学としての歴史」を形成し、「物語」「小説」からの脱出を図るのである。反証可能性を示す手法として、例えば、歴史を叙述する際に用いた資料を脚注に記述しておくことで、別の研究者が同様の手法と資料を用いてもある程度、同一の結論に至ることができる、もしくは妥当性を裁定できるようにしておく。すなわち、研究者間の検証によって、歴史研究の「物語性」・「小説っぽさ」は排除可能になっているのである。

 こうして検証可能になった歴史叙述に対しても、そもそも問題意識が極端なもので、かつ恣意的に文献が選定され、偏った引用文献ばかり用いられていたら検証しても意味ないのではないか、という疑問が出るだろう。しかし、現在では、特定分野には多くの研究者が研究に参与しており、偏った文献によって歴史が叙述されたとしても、研究者からの批判が寄せられることとなる。そして、先に述べたように、歴史的事実に基づく叙述が正当性を得るには、他の研究者とのコンセンサスが得られるかどうかが課題となるのである。こういったプロセスは、論文投稿においては「査読」、修士・博士論文においては「審査」という形で実現されているのである。つまり、歴史研究は研究者間の相互監視によって、逸脱した歴史記述が認められないように、システムが構築されているのである。

 疑い深い方は、研究初期の歴史叙述が間違っていた(妥当性が低い)場合、全体の研究方向性がそもそも誤った方向に向かうため、研究・研究者全体の信頼性が低いままになると疑問を持つかもしれない。しかし、研究者は先行研究を洗い、妥当性を判断したうえで先行研究を用いて研究を進める。よって、妥当性が低い場合、先行研究への批判と研究方向性の軌道修正がなされるのである。さらに、のちの研究者が新たな資料を発見するに伴って、先行研究とのすり合わせを行う段階で新資料と組み合わせて再度検証がなされる。このように、先行研究への批判プロセスのループが形成されるため、初期の歴史研究に誤謬があったとしても、修正がなされるのである。ただし、ここで補足したのは、誤った研究が必ずしも積極的に恣意的な研究資料の選定に基づくとは限らないということである。

 歴史研究は史料的限界という問題を常に抱えている。歴史研究を行う上で用いられる資料には、各国政府が発出した公文書・公刊物、政府高官の声明、新聞・雑誌記事、インタビュー、といった一次資料、すでに出版されている学術書といった二次資料がある。こうした資料は時間経過とともに公開・出版され、蓄積されるという特性を持つ。例えば、アメリカ合衆国政府が作成した公文書はFOIA(情報公開法)に基づいて、一部の文書を除き、一定期間経過後の原則公開が義務付けられている。公開された文書、紙媒体はアメリカ合衆国ワシントンDCにある国立公文書館(NARA)、メリーランド州にある国立公文書館2(NARAⅡ)、電子媒体ならオンライン上で保管、公開される[3][4]。しかし、研究初期の段階では、必ずしもこうした資料が十分に蓄積されておらず、史料的限界が生じる。史料的限界の中で研究者は研究を行わざるを得ない。よって、時間経過とともに誤謬が生じてしまうのである。しかし、分野にもよるが、先に述べたプロセスによって歴史研究はコンスタントに修正されるため、自浄作用が働く。よって、歴史叙述の妥当性は保証されることとなる。 

 したがって、歴史研究の妥当性を保証するのは、出典を明記することによる反証可能性、「審査」「査読」によるチェックシステム、先行研究批判による自浄作用なのである。

 (11/17,0:57:増補・改定)

[1] E.H.カー、清水幾太郎訳(1962)『歴史とは何か』岩波新書、p.1

[2] カー、p.3

[3] https://www.archives.gov/ (NARAリンク)

[4] http://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/pdf/226-1.pdf (FOIAに関する詳細、邦語)